あなたはクルマという道具についてどのような感覚をお持ちでしょうか──。
いち交通手段として。ステータスとして。心を通わせる相棒として。
どれひとつとして間違ったものなどありません。
しかしこのコラムを読んで頂いている方々にとってクルマはきっと特別な存在でしょう。

私にとってみればクルマはもはや機械そのもののレベルまで超えているのではないかとすら思わされるのです。それは何故なのでしょうか。
クルマと出会った。クルマと遊んだ。クルマを洗った。クルマと旅をした。クルマが怪我をした──治療をした。クルマとの別れ・・・。
このような視点から見ると単なる機械ではなく人肌のぬくもりを感じられませんか。

クルマとは人間が機械に愛着を持つという稀な存在なのです。またそれはドライビングにおいても同じです。人間はクルマという機械との対話・インフォメーションのやりとりを絶えず繰り返しながら走っているのです。機械の心を理解しようとすることなどは日常で滅多にあるものではありません。とすれば、クルマがここまで多様化、特に嗜好の領域において発展してきた理由として、その特異性が挙げられるのではないでしょうか。

さて、ここで現在の日本車について考察してみると、嗜好性に重きを置いたクルマは非常に少なくなっています。何故なら時代はエコ。走る愉しみ(=ドライビング・プレジャー)は忘れ去られかけています。では少し視点を変えてみましょう。すると、興味深い事が見えてくるのです。確かにエコカーは物質的にはエコかもしれない。より少ない燃料でより多くの距離を走る。それはすばらしいことです。ここで、長い目で見た真のエコとは何かを考えてみます。例えば、真剣に選び抜いて買ったその品物なら簡単に手放すことは出来ません。逆に安易な気持ちで買った商品ならそれまで。このことは当然クルマにも言えます。つまり本来なら、末永く愛されるクルマを提供するのが理想的であると考えられると思います。しかしメーカーが「エコ」を釣りエサとして使っている以上、現在の日本のクルマの存在は、そうした人々の心に働きかける真のエコにはなれないのです。クルマの立場からすれば、"クルマの人間離れ"が進んでしまうのです。クルマもきっとドライバーと心を通わせる本来の姿を望んでいるはずでしょう。先にも述べましたが、クルマというのは良い意味で機械を逸脱した物と言えます。嗜好性や個性があるが故に愛着がわき、「より長く、大切に使おう。」という気持ちが生まれるのです。これこそが本当のエコと言えるのではないでしょうか。

果たしてそんなクルマはもう日本から無くなってしまったのでしょうか。私はスバルが愛されるクルマ造りを得意としていると信じています。元来スバルはシェアが多くはないメーカーですが、様々な技術で世界をあっと言わせてきました。また、クルマへの最大の愛着である、ドライビング・プレジャーを大切にしてきた会社でもあります。それを証明するのが、コラム初回から深い繋がりとしてご紹介している、モータースポーツ。それは最高の性能追求のステージ。そして何より、クルマと人の密接な関係には欠かせない要素です。

このあたりにSUBARUのアイデンティティーを見いだすことができると思うのです。

次回後編ではスバルと、そのモータースポーツとの歩みにスポットを当てていきます。


懐古主義のスバリストより